アメリカの国会議事堂は、なぜあのような形をしているのであろうか。まるで、「ギリシャ」か「ローマ」ではないか。
それもそのはず、その建築様式は「新古典主義」として知られるもので、古き良き古代ギリシャ・ローマ時代を懐かしむものであったからだ。
当時のアメリカは「新しい国家」であり、その範を民主主義の入り口たる古代ギリシャ(アテネ)に求めたのである。
その新古典主義という思想が世に出るのは、「ポンペイ」という街が発掘されたことに端を発する。
ポンペイという街は、今から2000年近く前に、火山灰の下に埋れてしまった街である。
西暦79年、「ヴェスヴィオ火山」は大噴火を起こす。
火山の吐き出した「火山灰」は、一昼夜にわたってポンペイの頭上に降り注ぎ、人々は我先にと街を逃げ出す。
この時、取るものもとりあえず慌てふためいて逃げ出した人々は幸運であった。なぜなら、その翌日に発生した「火砕流」は、時速100km以上の猛スピードでポンペイの街に到達し、まさに「一瞬」で街を灰の中に閉じ込めてしまったからだ。
逃げ遅れて生き埋めになった人々は、逃げる姿そのままであり、恐怖の表情そのままであった。
※後に発掘された時、遺体部分はすっかり腐ってなくなっていたものの、火山灰の中には「型取り」したような人型の空洞が残されていた。
テーブルに並べられた食事もそのままであり、焼きたてのパンもそのまま火山灰に閉じ込められた。
瞬間凍結したようなポンペイは、そのまま1700年近くの時を過ごすことになる。
その遺跡が発掘されるのは1738年。火山灰の中にあったシリカゲル(乾燥剤)のような成分が湿気を吸収してくれたこともあり、保存状態は極めて良好で、1700年の時の隔たりを感じさせないかのようであったという。
壁画や美術品の色彩は鮮烈であり、「ポンペイ・レッド」とも賞賛されるほどであった。
ポンペイを襲った悲劇は、かつてのローマ帝国が大いに繁栄していた時代をそのままの形で保存していた。
ローマ帝国の領土が最大になるのは、ポンペイが埋まってから100年後のことであり、そのまた100年後になると、下り坂を転がり落ちるように衰退へと向かう。
つまり、ポンペイの街が後世に伝えるのは、ローマ帝国が勢いよく上り坂を駆け上がっていた最高の時代なのである。
その遺跡からうかがうことができるのは、信じられないほどの「豊かさ」であった。
街の全域には水道菅が張り巡らされ、娯楽施設である円形劇場、大浴場、ローマ市民の別荘も数多い。
「Carpe diem」というラテン語は「今日を楽しめ」という意味だそうだが、ポンペイの人々は、その言葉通りに日々の生活を謳歌していたのである。
ローマの豊かさを示す言葉には、「パンとサーカス(Panem et Circenses)」もよく知られている。
ローマの市民は「パン(正確には小麦粉)」が無料で配布されたため、あくせくと働くことから解放された。
食料に困らなくなった民が次に求めたのは「サーカス(娯楽)」である。その欲望に応えるため、帝国内の至るところに「円形闘技場」などが建造され、民衆たちは剣闘士たちのアクションに熱狂した。
「人類が最も幸福だった時代」とまで称せられるのが、このローマ時代なのである。
ローマ帝国滅亡後、その豊かさを人類が享受するのは、イギリスの産業革命以降(18世紀)だとまで言われている。ルネサンスもベルサイユ宮殿もローマの豊かさには及ばなかったというのである。
「狩りをして風呂に入り、ゲームをして笑う。それが人生だ」。こんな落書きも残っていた。
ローマ社会は階層構造になっており、トップに「皇帝」。それを支える「元老院(国会議員)」。そして「騎士」。
以下、「市民」、「解放奴隷」、「奴隷」と続く。
奴隷という言葉は否定的に響くものの、その実、現在のサラリーマンや専門職の人々(教師やアーティスト)のような存在である。
金融なども卑しい職業とされていたために、奴隷階級の中には相当に裕福な人々もいたらしく、その中には皇帝をも凌ぐほどの富を抱え込んでいた者までいたようだ。
むしろ支配階級の人々の方が、いろいろと責任が重かったために、自由な市民や奴隷たちの方が、のびのびと生を楽しんでいたようでもある。
5m以上もの火山灰に埋れたポンペイの街(1世紀)は、そんなローマの豊かさの一端を伝えてくれた。
その豊かさに驚いた18世紀の人々は、先に述べた「新古典主義」という思想のもと、ギリシャ・ローマ時代に恋い焦がれたのである。
アメリカの国会議事堂、ホワイトハウス、フランスの凱旋門などは、その代表的な建築物である。
新古典主義の隆盛する背景には、イギリスの産業革命、フランスの市民革命(1789)、アメリカの独立(1776)がある。
そのには抑圧され続けていた市民階級の怒りがあり、かつて現生を謳歌していた古代ローマへの憧れがあったのである。
ところで、人類が最も豊かだったとまで言われたローマ帝国は、なぜ衰退の道を転がり落ちていったのであろうか?
その衰退の一因には、「領土拡大」政策の限界がある。
ローマ帝国が富の拠り所としたのは、次々に獲得していく「属州」だった。
新たな属州からもたらされる莫大な富は、ローマ帝国の財政を潤し続け、その恩恵は市民たちに「パンとサーカス」として還元されていたのだ。
しかし、属州を獲得し続けることには明らかな限界があった。そして、その限界が訪れるのには、そう時間はかからなかった。
ローマ帝国の領土が最大となるのは、西暦117年。これ以後、領土が増えることはなくなったのである。
富の源泉を「領土拡大」に求めたことは、拡大をやめれば豊かさを維持できないということでもあった。
さらには、1万2,000km以上にまで拡大してしまった長大な「国境線」を守るには、国家財政の半分以上の支出までが求められた。
その結果、財政は困窮から破綻へ。財政を立て直そうとして「通貨」を発行し過ぎれば、「インフレ(物価高騰)」へ。
現在でもお馴染みのパターンにより、ローマ帝国は終わりへと向かい始めることになる。
ローマ市民たちは、彼らの乗っていた「危うい富の源泉」を知らずに、人生を謳歌していた。
食べ物は食べ切れないほどテーブルに並べられ、食べるために「吐く」ということが普通に行われ、吐くことが健康に良いとまでされていた。
さらには、食べカスを床にポイポイと撒き散らすことは、豊かさの象徴とまで言われていたのである。
こうした生活は特権階級ばかりではなく、奴隷とてその食生活に大差がなかったことが、ポンペイの発掘により明らかとなっている。
実体経済を維持できなくなったローマ帝国が最後に頼ったのは、「宗教」の力であった。
西暦313年、ローマ帝国が「キリスト教」を公認した時、その衰亡は確定したとも言われている。その決断は、まさに「神だのみ」であったのだ。
「パンとサーカス」が無限に提供できなくなったローマ帝国は、「現在」を犠牲にすることを市民たちに強要した。キリスト教の思想を通じて。
もはや、「Carpe diem(今日を楽しめ)」の時代は終わったのだ。
その後のローマ帝国の行方は、歴史の教える通りである。
火山灰の中で奇跡的に保存されていた「ローマの夢」は、人類にまた同じ夢を思い出させることになった。
そして、ローマ帝国の領土拡大による繁栄を、世界は再び繰り返すことになる。
帝国主義が勃興し、植民地は世界に広がり、かつて属州により繁栄したローマ帝国のような国々が、世界中に乱立する。
しかし、この種の富に「限界」があることも、また同じであった。この夢は、2度の世界大戦を引き起こすことにもつながってしまう。
その後、世界は経済のグローバル化という手法で、また再び「あの夢」を見ることになる。
何度も何度も繰り返してはやまない「拡大による富の獲得」。
ギリシャ発のユーロ危機は、その限界を再び示すものであった。
そして、その対策はと言えば、世界三大通貨であるドル・ユーロ・円の度重なる「量的緩和」である。
量的緩和というのは、簡単に言えば「紙幣の増刷」であり、財政破綻したローマ帝国が行った通貨の大量発行と同じことである。
物価高騰を招く量的緩和は、予想通りに世界のエネルギー価格、食糧価格を押し上げ、将来への禍根を残す結果になっている。
さて、次に来るのは…、「神だのみ」であろうか。
時代は変われども、それは看板が掛け替えられるだけようなもので、その実「同じことの繰り返し」に終始していることもままある。
「拡大による富の獲得」を目指す限りにおいて、人類は「ローマ帝国の夢」に憧れ続けるのだろう…。
火山灰に埋没したポンペイの街は、ある意味、幸せであった。帝国の衰退を見ることなく、上り調子のままに永久に時が止まっているのだから。
それに対して、現代に生きる我々の「時」は、残念ながら進み続ける。不幸にも拡大の限界に達していながらも、進み続ける。
不幸中の幸いは、ポンペイがその歴史を残してくれたことにある。そのお陰で、我々には選択するという自由が与えられたのだ。
かつての新古典主義のようにそれに憧れるのも良し、逆に、その教訓を肝に命じるのも、また良しである。
さらに幸いなことには、我々は新古典主義の行方まで知っているではないか。
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出典:BS歴史館
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