2012年6月17日日曜日

遺伝子がDNAに存在することに気づいた「オズワルド・エイブリー」


ネズミ。

研究所の暗い廊下を行き来する年老いたネズミのような影。

その影が「オズワルド・エイブリー」であった。



そんな彼こそが、遺伝子は「DNA」にあることを初めて世に示した人物である。

彼が研究を始めたのは36歳の頃であり、研究者としては「かなり遅いスタート」であったのに加え、遺伝子の本体がDNAにあると見極めた時には60歳を過ぎていた。

生涯にわたって小さなアパートと研究所を規則正しく行き来していたというエイブリーは、外出嫌いであり、研究所のあったニューヨークから外に出たことはほとんどなかったという。

※「」内は著書「生物と無生物のあいだ(福岡伸一)」からの抜粋。以下同。







エイブリーの業績は、のちの「ワトソンとクリック」にDNAの2重ラセン構造を発見させるほどに偉大なものなのだが、謙虚で控えめなエイブリーの人柄を表すかのように、その輝かしいはずの偉業もほとんどの人に知られていない。

ただ、エイブリーの在籍したロックフェラー大学の人々にエイブリーのことを語らせると、「そこには不思議な熱がこもる」のだという。

「誰もがエイブリーにノーベル賞が与えられなかったことを科学史上最も不当なことだと語り、ワトソンとクリックはエイブリーの肩に乗った不遜な子供たちに過ぎないと罵(ののし)る」

※ワトソンとクリックはDNAの2重ラセン構造の発見によって、1962年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。



科学界においては、「若い一時期だけが研究上のクリエイティビティを発揮できる唯一のチャンス」と喧伝されているだけに、60歳を越えてから花開いた「遅咲きのエイブリー」は、彼らの「アンサング・ヒーロー」なのである。

※「アンサング・ヒーロー(unsung hero)」を日本語にすれば「縁の下の力持ち」。「sung」という単語は「sing(歌う)」の変形であり、その頭に「un」がつくことで「反対の意味」になり、「(詩歌などに)歌われていない」、すなわち「(業績などが)詩歌によって褒め称えられていない」となる。



エイブリーの業績を端的に語れば、それは「遺伝子はDNAにある」という発見に尽きる。

当時の常識では、遺伝子は「タンパク質」にあるのもであり、DNA(核酸)にあるとは考えられていなかった。

なぜなら、遺伝子は大量の情報を担っているのだから、「極めて複雑な高分子構造をしているはずである」と当時の科学者たちは思い込んでいたからである。



細胞に含まれる複雑な高分子とは?

それは「タンパク質」に決まっている。その構成要素は「20種類」もあるではないか。

DNA?

「たった4種類しか文字のないDNAが、どのようにして20種類もの文字からなるタンパク質の設計図を担いうるのか?」



現在の我々は知っている。

遺伝子はDNAにあり、その情報を元にしてタンパク質が形成されることを。

つまり、DNAはタンパク質の「設計図」であり、タンパク質は生命活動の「実行者」なのだ、と。



ところが、そうした「遺伝子の謎」が明かされるまでには、もう少々時間が必要であった。

当時の人々にとっては、どう考えても20種類もあるタンパク質の方が「多彩」である。アルファベットだって26文字もあって、その多彩さが無限の世界を生み出しているではないか。

いくらDNAが高分子構造をしているといえども、たった4文字では「This is a pen」すら表現できない。そんなDNAはデカいだけデカい「ウドの大木」に過ぎないとしか考えられなかった。



そんな時代にエイブリーは「遺伝子はDNAにある」と主張した。

時代の流れに真っ向から逆らったエイブリー。彼がどんなに「謙虚」だといえども、批判の集中砲火は免れ得なかった。



それでもエイブリーは自分の実験結果を信じた。

彼自身もその実験結果には「半信半疑」な思いも抱いていたというが、何度実験を繰り返しても、「結果はただ一つのことを示していた」。

「遺伝子の本体はDNAである」、と。



福岡伸一氏は、著書「生物と無生物のあいだ」にこう記している。

「科学者はその常として自分の思考に固執する。

仮りに、自分の思いと異なるデータが得られた場合、自分の思考が間違っているとは考えない。」



幸いにも、謙虚なエイブリーはこの類の科学者ではなかったようだ。

エイブリーは福岡氏の言う「知的さの最低条件である自己懐疑」ができる人物であった。

「実験がうまくいかないという見かけ上の状況はいずれも同じであるにも関わらず、自分の仮説が正しいと考えるか、正しくないと考えるかは、まさに研究者の膂力が問われる局面である。」



多くの科学者たちが「タンパク質」に固執して、遺伝子とタンパク質を切り離して考えられなかった時代にあって、エイブリーはいち早くその「幻想」から抜け出すことができたのである。

そして、そのエイブリーの聡明さが「生命科学の世紀でもあった20世紀最大の発見」、すなわち遺伝子がDNAにあることを明確に世に示し、「分子生物学の幕開き」をもたらすことにもつながるのである。

ただ残念なのは、「孤高の先駆者の常として、ほんの少しだけ早すぎた」のである。



ところで、遺伝子がDNAにあるということを疑いもしない現代の我々にとっても、「なぜたった4種類の部品しか持たないDNAが、20種類もの部品を持つタンパク質を凌駕するほどの膨大な情報を担いうるのか」、というのは大きな疑問である。

ところが、その答えは思ったよりも簡単に解ける。解けてみれば、当時の頭脳たちがなぜ分からなかったのかが不思議なほどである。



以下、「生物と無生物のあいだ」より。

「4種のDNA文字が、それぞれ1つずつタンパク質文字に対応しようとするから困難なだけである。

3つのDNA文字で、一つのタンパク質文字に対応すれば?

DNAの文字は、4×4×4で64通りもの順列組み合わせを作り出せる。これなら20種類のタンパク質文字をカバーすることなどわけはない。」



現代のコンピューターでさえ、「0」と「1」というたった2文字の組み合わせから、かくも複雑な情報を処理できる実力を持っている。

大元となる設計図(DNA)はよりシンプルに書かれていたほうが、トラブルは少ないはずであるり、何よりも高速で動く。

そして、多様な外界に対して実行部隊となるタンパク質が20種類という多様さを持つのも、雑事に身をやつさなければならないゆえであろう。



エイブリー亡き後、「DNA研究の嵐が疾風怒濤のごとく始まる」こととなる。

逆に言えば、「タンパク質 = 遺伝子」という幻想は、科学者たちにとってそれほどに重い足カセだったのだ。

その足カセを外してくれたエイブリーの業績を、ロックフェラー大学の人々が熱く語るのはゆえなきことではないだろう。



福岡伸一氏は感慨とともに、こう記す。

「エイブリーを支えていたものは一体何だったのであろうか?

おそらく終始、エイブリーを支えていたものは、自分の手で振られている試験管の内部で揺れているDNAの溶液の手応えではなかっただろうか。

別の言葉でいえば、研究の『質感』といってもよい。」



福岡氏のいう「質感」とはリアリティーそのものであり、直感やヒラメキとは全く別の感覚である。

研究現場において、直感やヒラメキは「負の作用」をもたらすと福岡氏は考える。「これはこうに違いない!」と直感的に思い込んだ時に、「自然界の本来の在り方とは離れていく」と彼は言う。

そして、そう思い込んでいたのはタンパク質に囚われていた科学者たちだったのであろう。



幸いにも、エイブリーを批判していた人々は、「時代の見えない人々ばかり」であった。

のちに時代を牽引することとなる先の見えていた科学者たちは、エイブリーの論文に「大いに刺激を受けている」。ノーベル賞を受賞することとなるジェームズ・ワトソンもこう記している、「エイブリーの実験を高く評価していた」、と。



さて、エイブリーが世を去った後、「誰よりも聖杯の隠し場所に肉薄していた」のは「アーウィン・シャルガフ」であった。

彼はDNAの4つの構成要素である「A・T・G・C」のうち、「AとT」、「CとG」の含有量は常に等しい、というところまで辿り着いていた。

しかし、彼はここで力尽きる。「なぜ、AとT、CとGは常に同じ数なのか?」。このパズルは彼には解けなかった。



このパズルを解いた人物こそ「ワトソンとクリック」であり、ノーベル賞に手が届いた科学者たちである。

その答えはこうだ。「DNAは必ず『対(ペア)構造』をとって存在している」。

対(ペア)構造をなすのはAとT、CとGの組み合わせであり、それゆえにAとT、CとGの数は常に等しいのである。



この発見は、のちに「2重ラセン構造」としてノーベル賞を受賞することになるのだが、より重要なのは「ラセン構造そのものよりも、DNAが対(ペア)で存在しているという事実」であった。

このシンプルな発見は、「わかってみれば、そんな単純なことをどうして自分は気づくことができなかったのかと誰もが嘆息した」瞬間でもあった。

「あとになって、ワトソンは、『そんなことはちょっと考えれば誰にでもわかることさ、なぜなら自然界で重要なものはみんな対になっているのだから』、と嘯(うそぶ)いた」という。




福岡氏に言わせれば、こうなる。

「DNAの二重ラセン構造の秘密にあと一歩まで迫りながら、アーウィン・シャルガフはそれを果たせず、後からこの岩壁に取りついた新参者の若造2人に登頂の栄誉をさらわれてしまった。

目前のところで、この大発見を逃し、ノーベル賞を逃すことにもなった誇り高いシャルガフの胸中はいかばかりのものだったろうか」、と。



ワトソンが嘯(うそぶ)いたように、自然界に対(ペア)は多い。

男女がそうであろうし、目も耳も手足も対(ペア)になっている。

「生命がわざわざDNAをペアにして持っているのは、その保持コスト」ということか。DNAは日常的に損傷を受けているものであり、また日常的に修復がなされているものでもある。片方が無事ならば、もう片方はすぐに復元(コピー)可能である。



ノーベル賞を獲ることとなるワトソンとクリックが「DNAの構造を解きさえすれば一躍有名になれる」と考えたのは、「DNAこそが遺伝子を運ぶ重要な分子である」とあらかじめ知っていたからである。

そして、遺伝子がDNAにあると世に示したのは、「ときどき廊下の壁ぎわを、薄茶色の実験着をきてチョロチョロしていた年老いたネズミ」こと、「オズワルド・エイブリー」、その人だったのである。

そして、ロックフェラー大学の人々が熱く語るように、エイブリーこそが「ノーベル賞」を受賞すべきだたのかもしれないし、実際のノーベル賞を受賞したワトソンとクリックは「エイブリーの肩に乗った不遜な子供たち」だったのかもしれない。



福岡氏の思いも熱い。

「家族もなく、極めて単調に見える彼の生活は、おそらく彼の内部では決してモノトーンではなかった。

天に向かって少しずつ高みを増す摩天楼の建設のように、彼も着実に真実に近づいていた」



エイブリーの研究室のスタッフたちは、自ら試験管を振ることを止めようとしないエイブリーを、敬意を込めて「フェス」と呼んでいたという。

エイブリーを「ネズミ」と呼んだのは、2重ラセン構造の一歩手前で力尽きた「アーウィン・シャルガフ」であるが、彼は「親愛の追想」を込めて、エイブリーをそう呼んだのだ。



思考に固執した科学者たちは、タンパク質の周りをグルグルと巡るのみであった。

そして、その不毛な円環をラセン階段のような上昇へと向かわせたエイブリー。

ところが、その途上で道に迷ったシャルガフ。

ついには、2重であることに気づいたワトソンとクリック。



当時の科学者たちを夢中にさせた「遺伝子の謎」は、かくも多彩なドラマに満ちている。

それを見事な筆力で描く福岡伸一氏も、彼らと同様の科学者でありながら、その筆は文学者のそれかと思わせるほどに魅力的である。

ここのご紹介したストーリーは、そのほんの一端に過ぎない。このあと、著書「生物と無生物のあいだ」はまだまだ魅力的なドラマを紡ぎ続ける。

「生物とは何か?」人類の目指すその答えとは?







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