2012年6月5日火曜日

「自我」を超えた先には…。


「自我」を超越するために、人類は多くの方法を見つけ出してきた。

それは瞑想であったり、幻覚剤であったり、一晩中踊り狂うこと(レイブ)であったり…。

いかなる方法であれ、ある種の意識変容を体験した人々は、似たような感想を口にする。「高められた」「高揚した」などなど、上昇するような感覚がそこにはあるのである。



自我を超越するためには、さまざまな入口があるようだが、その中でも一風変わった入口は「戦争である」と、ジョナサン・ハイト氏は考える。

「戦争ほど人々を一つにするものはない」





第二次世界大戦に従軍したグレン・グレイ氏は、戦火が止んだあと、多くの戦友たちにインタヴューして回った。

そして、多くの退役軍人たちは、こう語った。「戦争における共同活動の経験は、人生最高の時であった」



「『I(私)』という個人の感覚は、『WE(私たち)』という集団意識に変わり、個人的な信条は、いつのまにか重要性を失っていく。

『私』は倒れるかもしれないが、死にはしない。なぜなら、『私たち』という仲間集団が生き続けるからである。

これは『不死』の保証にほかならない」



戦争という極限状態において、仲間同士の団結は異例の粘着力をもち、いつしか「自我」は集団の中に溶け去っていくようである。

それは「本当に気持ち良くて、何かに高められたような感覚を得ることができる」のだという。



こうした団結による恍惚感を感じさせるのは、ある種の宗教もまた然りである。

別個バラバラに存在していた個々人が「一体化」を感じるとき、「俗」は「聖」へと転じ、その全体は個人の合計をはるかに超えていく。

そして、「心の階段」を昇っていった先に神を見出した時、やはり自我は溶け去ってしまうのだ。



心の階段の先で1秒間だけイエス・キリストと出会ったというステファン・ブラッドリーは、こう語っている。

「私は身悶えして喜びました。その幸福感といったら大変なもので、もう死んでも良いと思えるほどでした。

今までの自分は非常に自己本位でワガママでしたが、今はもう違います。最悪の敵ですら赦すことができるのです」



「戦争」とは対極にあるような「宗教」。

しかし、両者には「くされ縁」とでも呼べるような奇妙なつながりがあるようだ。戦争が宗教を生み、宗教が戦争を生むような「あざなえる縄」のような関係があることを歴史は教えてくれる。

そしてまた、自我を超越するという体験においても、両者は奇妙な邂逅を果たすのである。



生死をかけた戦いは、強烈な集合意識を喚起、醸成する。

第二次世界大戦に勝利した戦勝国での、集団的な喜び。
9.11のテロによりアメリカ国民が感じた、集団的な悲しみ。
独裁者を倒さんと立ち上がったエジプト国民の、集団的な怒り。

外部からの圧倒的なストレスが、集団内に強固な「一体感」を生むのである。そして、こうした一体感は同一の信条のもとに集った信者間でも生まれるものでもある。



デュルケームは、こう言った。

「一体化するものは何であれ、神聖さを帯びる」と。

それが戦争によるものであれ、宗教的なものであれ…、小さな自我が、より大きな全体の一部であることを実感した時に、人間は「自我を超越した」という感覚を得られるようである。




ところで、神であれ何であれ、より大きなモノへの一体感によって得られる恍惚は、人間にあらかじめ設計されているものなのか?

はたまた、「進化システムのバグか、何かの間違いか?」

社会科学者であるジョナサン・ハイト氏は、ここで立ち悩む。



「一体どうして、自我を超越して、自分自身を失うことが、私たちにとっての『善』となりうるのか?」

進化論の祖ともされるチャールズ・ダーウィンは断言する。「そうした徳の多くは、私たち自身にはほとんど役に立たない」と。

しかし、集団となると話はガラッと変わる。「その徳は、私たちの集団にとっては、大いに役に立つ」



たとえば、個々が争い続ける限り、その勝者はつねに「タダ乗りする連中」になるというシミュレーションがある。

タダ乗りする連中というのは、自分では何も生産せずに、他人のモノを横取りする連中のことである。

つまり、自分自身(自我)に固執し続ける世界というのは、正直者がバカをみる世界なのである。



ところが、そんな世界に集団が現れるとどうなるのか?

タダ乗り連中の栄華は一睡の夢と消え、勝敗は集団化した一族たちの制することとなる。



個々人の争いというのは、自身を切磋琢磨するのに必要な一方で、それがネガティブ・キャンペーンに陥ってしまうと、自滅的なものにもなりかねない。

たとえば、あるボート部を例にとってみよう。

同じ部に属する仲間とはいえ、彼らはライバル同士でもある。なぜなら、遅い漕ぎ手や弱い漕ぎ手はチームから外されるのだ。

そこで悪賢い連中は、自らの技能を高めるよりも、他の仲間の妨害(ネガティブ・キャンペーン)に走るかもしれない。ライバルの悪口を監督に密告したり…。



しかし、そんな小さな争いは、より大きな争いの前には、まったく意味のないものと化す。

ひとたび「同じボート」に乗り込めば、年来の仇敵でさえ仲間にならざるをえないのだから。

その様はまさに「呉越同舟」。敵であれ味方であれ、対岸につくまでは協力せざるをえない。もし、同じ舟の中で争えば、敵味方もろとも沈んでしまうのだ。




この「同じボートに乗せる」という戦略は、生命進化の常套手段でもある。

そして、この戦略こそが、ズル賢いタダ乗り連中の繁茂を抑えることにもつながっている。



なぜ、一つの細胞の中に、完全に独自のDNAをもつミトコンドリアが存在しているのか? ミトコンドリアは自由なバクテリアではなかったのか?

その答えは、「同じボート」に乗った方が生存に有利であったからだ。



ミトコンドリアという小さな個体が、自我を超越して別の細胞の一部となった時、彼らは「高揚」したであろうか? 恍惚となり「もう死んでもいい」とおもったであろうか?

結果的に、より大きな一部となったミトコンドリアだけが、この世に生をつないでいる。




細胞が他の生命と一体化した超個体になるその過程では、他人の労力を搾取するだけのタダ乗り連中もいたのであろう。しかし、悲しいかな、彼らの姿はもはやどこにもない。

同じボートに乗り込んだ細胞内の各人には、それぞれの仕事があり役割がある。誰もタダ乗りなどしていないのだ。

そして、同じボートに乗り込んだ連中の生み出す富は、各個人が生産していたそれの合計よりも、はるかに巨大なものとなったのだ。



こうした細胞レベルにおける個から集団の形成は、フラクタル(相似)にできているようである。

※フラクタルというのは、事物の大小にかかわらず、ある一貫した法則が存在することであり、ナノの世界が全宇宙に通じ、宇宙の法則が人間の社会にも見出せたりすることである。

スズメバチが群れるのも、人間が群れるのも、それはミトコンドリアの下した決断とまったく同じ理由で同じボートに乗り込んだ結果なのだ。



しかし、生命の進化というのは、どうにも可逆的である。つまり、後戻りもするのである。

同じボートに乗り続けたほうが得だということが分かっていながら、必ずその輪を乱すモノが現れては、そのボートを沈めてしまうのだ。

かつてのタダ乗りの栄光が忘れられないのであろうか。同じボートに大人しく乗っていると、タダ乗りの虫が疼き出さずにはおれないようである。



かくして、人間という不思議な生き物集団は、くっついては離れ、離れてはくっつきを繰り返す。同じボートに乗り込んだり、また降りたり、時にはボートを沈めたり…。

ただ幸運なことは、同じボートに再び乗り込むたびに、「一体感」という至上の幸福を再び味わえることである。



戦争というのは、基本的には破壊的な行為であり、その目的は一体感を得るためとは言い難い。その過程で得られる一体感というのは、むしろ副次的であり、予期せぬ産物といったほうが正確であろう。

一方、宗教的な一体感は、はじめからそれを目的としている。しかし、不幸なことには、特定の集団だけによる一体感が、当初は予期していなかった争いを生んでしまうことも…。



3歩進んで2歩下がる…。

「心の階段」はまっすぐに上へ伸びているとは限らず、螺旋のように渦巻いていることもあるようだ。同じところをグルグルと…。

それでも、人は自己を超越したがるようにできているのだろうか。



自己超越の比喩は、たいてい上下を示す。上へいけば、自分を超えられるというのである。

より上にある集団のボートに乗り込めば、より聖なるモノに近づけるのだ。そして、その証しが一体化による「恍惚感」である。



しかし、そうした恍惚感には「落とし穴」も存在する。

たとえば、一晩中踊り狂うレイブという行為があるが、そのレイブという言葉の語源は、「自分にウソをついて盛り上がる」という意味だそうだ。

つまり、生命の暗号に組み込まれた恍惚感の中には、多少のバグも依然残されているということだ(麻薬などによる一時的な恍惚感も、バグの一つか?)。



宗教体験の中から得られる恍惚感ですら、その危険性がないとは言い切れない。

逆に、戦争中に感じたという恍惚感が、ニセモノであると切って捨てることもできない。



はたして、自我を超越するために、一体化は必須の要素なのであろうか?

その一方で、「自我を捨て去る」、「自我を脱する」という表現もある。

これらの表現には、一体化のニュアンスは感じられない。むしろそこには、より身軽になる印象、離れていくイメージが伴っている。



禅の公案に、こんなものがある。

今、自分は高い木の上にいる。もし、そこから落ちたら命ははいほどの高さだ。

そこで「足を離せ」と言われた。しょうがなく足を離して、両手で必死にブラ下がっていると、今度は「両手を離せ」と言う。

どうしようないから、口で枝に噛み付いていると、さらなる難題が…。「その口を開いて、救いを求めている人に説法をしろ」と言うのである。



もう観念するしかない。

大木との最後の接点であった口を開いた途端に…、真っ逆さまと思いきや…?



自我を超越するための入り口は、一つではないようだ。

一体化するも良し、すべてから離れるも良し…。

上に昇っても、真っ逆さまに落っこっても…。



二分された世界では、自分のボートがいくら巨大化しても、そのボートはフラクタル(相似)の世界にとどまるのであろう。

いずれ必ず、より大きいボートが登場するのである。たとえ、自分のボートに神様が一緒に乗っていたはずでも…。

そして、別のボート同士は、その狭間で決まってイザコザを起こすのだ。それは、階段の踊り場あたりで…。






出典:TED Talk
ジョナサン・ハイト: 宗教、進化、そして自己超越の恍惚

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