2012年6月10日日曜日

壁画に描かれているような暮らし。サン族。


「壁画に描かれているような生活」をする人々がいる。

裸足で大地に立ち、弓矢を駆使して動物を狩る。アフリカ大陸南部に暮らす「サン族」は、何千年となく、そうやって生きてきた。

※かつて「ブッシュマン」と呼ばれた人々で、ボツワナ・ナミビア・南アフリカにまたがる「カラハリ砂漠」に住む。

Source: eishsa.co.za via Alwyn on Pinterest



「狩猟」は男たちの仕事であるが、ここのところ芳しくない。獲物が獲れない日々が、3週間以上も続いているのだ。

今日も4人の男たちは、フラフラと猟に出かける。しかし、どこにも気負った風は見られない。わりとノンキに小鳥とりの罠をしかけたり、道端の植物の根っこをひっくり返したり…。



一人の男が樹木の中にハチの巣を見つけると、にわかに男たちは気色ばんだ。

さっそく自前の小枝で火を起こすと、その煙でハチを燻り出す。そして、男が木の中に手を突っ込むと…、甘~い甘~いハチミツの御出ましだ。

思ったよりも量が少なかったためか、彼らはその場でペロリと全部食べてしまった。






ハチミツを手で食べていたために、少し手が粘ついたのか、男はある植物のイモのような根っこを掘り出すと、その根を削りながら手を洗い始めた。

大根おろしのようになった根っこを、ギュッと絞れば水分が滴り落ちる。ついでに水分補給だ。

「すこし苦い」らしい。



そんなこんなをしていたら、あっという間に時間は過ぎ、そろそろ帰らなければならない。残念ながら今日も獲物は見つからなかった。

行きがけに仕掛けていった小鳥の罠は…、仕掛けた時そのままで、小鳥が来た気配すらない。



村に戻った男たち。またしても手ブラであるが、誰もそれを責める人はいない。狩りの様子を聞く人すらもいない。

手柄のなかった男たちは、貯め込んであった木の実をひたすら割って、みんなに配っていた。



次の日、どうやら雲行きが怪しい。雨が来そうだ。

ということで、狩りは中止。弓矢のメンテナンスなどに時間を費やす。これらの道具はすべて自分たちのお手製であり、弓の弦は動物の腱を利用して作られている。



また次の日、今度は明らかに雨だ。

狩りはできない。村のみんなと遊んで時間を過ごす。



さあ、いよいよ晴れだ。今日こそは獲物を狩れるだろうか。

今回は幸先が良い。動物の足跡をすでに見つけている。

彼らは足跡を見ただけで、何の動物なのかを瞬時に判別できる。そして、時間さえかければ、次の足跡、また次の足跡と、必ず行き先を追跡できるのだ。



そうして彼らは、ある穴へと行き着いた。

その穴に長い棒を突っ込んでみると、明らかに動物の気配。今回の獲物は野ウサギだ。

その反対側から、男が素手で穴を掘り始めた。大の大人がスッポリと入れるほどに穴を広げていった時、ついに野ウサギの後ろ脚を捕まえた。



グイッと引っ張りだすと、即座に撲殺。

何も彼らが残酷なのではない。生きるためには殺すことも必要なだけである。

ただ、我々文明人は、殺す過程を見ないことにしているだけである。毎日のように肉を食らっているにも関わらず…。



日本のマタギは、クマを射殺する時、必ず心臓一発で仕留めるのだという。そうすれば、クマの苦しみは最も少なく、血もあまり出ないのだとか。

だから、逆に一発で仕留める自信がなければ、マタギはクマを撃たない。撃ち損じれば、それはいたずらにクマの苦しみを大きくしてしまうだけなのだから…。



さあ、小さなウサギ一匹とはいえ、一ヶ月近くなかった獲物だ。

獲物を見た村の人々は、わらわらと集まってくる。内臓をとり、脚をもぐ。脚の腱は弓矢の弦になるからだ。

毛を焼くように、火にかざした後は、半分を煮物に回す。



焚き火で焼かれた半身は、香ばしい匂いをさせ始める。いよいよ食べ頃だ。

男が最初に肉を手渡した相手は、子供たちだ。子供たちにはウサギの脚を与えた。「将来、ウサギの足跡をうまく見つけることができますように」、と。

次々に肉を配っていくと、ウサギ一匹はあっという間に完食だ。




狩りをしてきた男たちは、各々一口ぐらいしか肉を食べていないようだ。

しかし、それでも彼らは満足気だ。みなが喜んでいるのが、ことさらに嬉しいようだ。



彼らの生活は、文字通り、地に足が着いている。

一ヶ月も獲物がないことがあっても、彼らの生活は途絶えることがない。

何千年となく、こうした変わらぬ生活が繰り返され、彼らの生はつながれてきたのだ。



こうした人々がいることに、今回の旅人・要潤氏は、少なからず心を動かされた。

彼は「自分が変わらなければならない」と思い定めて、悩み続けていたのである。

ところが、ここには「全く変わらない人々」がいた。



サン族の人々は、何千年と同じ事を繰り返し、そして、これからもそうして行こうとしているのだ。

何千年か前に描かれたのであろう、壁画の動物たちを、彼らは今なお追い続けているのである。

Source: squidoo.com via Rodney on Pinterest


現代ほど、高度に発達した文明というのは、過去にあったのか?

高度な文明というと響きは良いが、それは精密機器のように脆い側面も持つ。

どれほど高度な技術が詰め込まれたパソコンでも、内部のどこかがおかしくなってしまえば、ただの箱に成り下がる。



それは現代人にも言えることで、我々の生活から何か一つでも欠けしまったら、我々の生存はとたんに覚束なくなってしまう。

「高度」というのは、文字通り「高い」という意味であり、高く積み上げれば積み上げるほどに、それは崩落の危険も増大するのである。



一方、サン族の暮らしぶりは、まったくもって高度ではない。

むしろ、大地から一歩たりとも足を離さぬかのように、そこに留まり続けている。

まさに人間が始まったのであろう、その場所に。何も変えずに…。



他方、アフリカの大地を旅立った現代文明人たちは、何千年と変化をもとめてやまなかった。

そして、いつしかサン族の人々の暮らしを、見下すようにもなっていた。

しかし、もし事起こらば、足元をすくわれるのは、現代文明人たちに他ならぬのであろうとも思われる。我々の作り上げた高い高い塔は、それほど頑強とは思えない。



カラハリ砂漠にサン族がいてくれていることは、一つの安心なのかもしれない。

我々が幾多の変化の中で失ってしまったものも、ここには大切に残されているような気がする。



村で獲物を待つ女・子供たちは、たとえ男たちが獲物を持って来なくても、じつに淡々としていた。

ようやく獲物を狩った男たちは、ほどんどその肉を口にしなかった。



彼らは、「生活そのものに満足している」と、ほほ笑む。

彼らの心のスタンスは、心地良いほどにユルリとしているようだ。



今我々が問うべきは、「生活の質」なのだろうか?

質ばかりが高まっても、「心のスタンス」が窮屈になってしまっては、本末転倒ではあるまいか。

食うに困っている時でさえ、雨の日を無邪気に遊べるサン族の人々は、何かを確信しているのかもしれない…。





ブッシュマンとして生きる
―原野で考えることばと身体





出典:旅のチカラ
「砂漠の狩人に人生を聞く 旅人 要潤 ナミビア」

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