2012年6月22日金曜日

物語多き豪華客船「タイタニック」とその姉妹


豪華客船「タイタニック」は「ひとりっ子」ではなかった。

上に姉、下に妹をもつ「三姉妹」のうちの一人であった。

今ではタイタニックの名前ばかりが歴史に残ったわけだが、当時はむしろ姉の「オリンピック」の方が目立っており、その妹のタイタニックはむしろ控え目な存在だったのだという。

※オリンピックとタイタニックはほぼ同時に造られており、その見かけは双子のように瓜二つであった。それに対して、末妹の「ブリタニック」だけが建造場所の都合から少し後に造られたため、二人の姉から改良された部分も多かった。




これら三姉妹には「姉妹」という慎ましやさはなく、「三女神」と呼んだ方がシックリくるほどにいずれも壮麗豪華で巨大な客船であった。

その巨大さは「ニューヨークの摩天楼よりも巨大」であった(全長270m)。

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この三女神の活躍の場所は「大西洋」。

イギリスと新大陸アメリカをつなぐ一大航路である。

三女神が産声をあげた20世紀初頭は、前世紀から続くヨーロッパからアメリカへの大移動が活況を呈していたその真っ最中であった(19世紀半ばからの半世紀の間に、およそ2,000万人以上が海を渡ってアメリカへ上陸したのだという)。



この航路は船舶会社にとっての「ドル箱」であり、いかに速く海を渡れるか、いかに多くの乗客を一度に運べるかで、各社が凌ぎを削り合っていた。

「ブルーリボン賞」というのは、大西洋をいかに速く横断したかを示した「最速の証(あかし)」であった(受賞船舶は細長いブルーリボンをトップマストに係留することが許された)。

この賞が設立された19世紀前半、その平均速度は時速13~15km(7~8ノット)程度であったが、タイタニックの時代には時速45km(25ノット)を超えるほどになっていた。



この速度競争に躍起になっていたのは、「ホワイト・スター・ライン社」と「キュナード・ライン社」。

一時はホワイト・スター・ライン社が優勢であったものの、20世紀に入ってからはキュナード・ライン社が圧倒的であった。キュナード・ライン社が送り出した「ルシタニア」と「モーリタニア」の二姉妹が圧倒的な記録を樹立していったのだ。

最新鋭の蒸気タービンエンジンを積んでいたキュナード・ライン社の二姉妹に敵はいなかった。さらに同社は、イギリス政府から巨大な融資を受けるほど優遇されていた。

※のちにドイツの船舶会社が他を圧倒することになる。



速度競争にすっかり置いてけぼりを食ったホワイト・スター・ライン社が、起死回生をはかって世に送り出したのが、冒頭の「オリンピック・タイタニック・ブリタニック」の三女神である。

同社の船舶すべてを抵当に入れてまで、ホワイト・スター・ライン社はこの三女神に全てを賭けたのである。

※キュナード・ライン社の船舶の名前は「-ia(~イア)」で終わり、ホワイト・スター・ライン社は「-ic(~イック)」で終わる特徴があった。



ところが、船舶の性能では大きく溝を開けられていたホワイト・スター・ライン社の戦略は、速度競争にはなかった。

新たに「豪華さ」と「巨大さ」という新機軸を打ち出したのである。この新機軸は増大する富裕層の欲望に応えるものであった(片道350万円もの大金をスイートルームに払う大金持ちもいた)。

のちに、この「巨大さ」が同社のクビを締めることになるとは露知らず…。



圧倒的な巨大さでデビューした長女「オリンピック」。ライバル社のルシタニア・モーリタニアを30mも上回るほどに巨大であった。

ホワイト・スター・ライン社はこう謳った。「巨大なほど『安全』である。他の船と衝突しても決して当たり負けしない」と。



しかし、その巨大さは「張りぼて」であった。

「時代遅れの恐竜」と揶揄されたように、その巨大な図体は前世紀の帆船時代の古い設計を「引き延ばしただけ」であり、この巨大さがどんな事象を引き起こすのかは、「実際に動かしてみなければ判らなかった」。

※タイタニック号の4本の煙突のうち一本はまったくの飾りであり、ペットの預かり場所とされていた。最初は3本だった煙突が一本増やされたのは、ライバル船のルシタニア号に見かけで対抗するためだった。



オリンピック号の巨大なスクリューは、早速重大事故を起こす。

その巨大なスクリューの巻き起こした強烈な水流に巡洋艦ホークが巻き込まれて、オリンピック号との衝突事故につながったのだ。

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事故を調査したイギリスの査問委員会は、すべての責任はオリンピック号にあると結論づけた。しかしそれでも、ホワイト・スター・ライン社は、こう言い放った。

「これほどの大事故に遭っても沈没しなかったオリンピック号はやはり『浮沈船』なのだ」と。

※「浮沈船」という言葉は、シップビルダーという雑誌に掲載されていた「実質的に浮沈(practically unsinkable)」という文句からきている。



あわや巨大船の信頼失墜という危機を、ホワイト・スター・ライン社は逆に最大の宣伝に利用した。

というのも、社運をかけた大計画は、もはや後戻りできないところに来ていたのである。



のちの歴史を知る者から見れば、長女オリンピックの大事故は、次に続く次女タイタニックの引き起こす大惨事の序曲であった。

姉の大事故の7ヶ月後、次女タイタニックは運命の処女航海に出るのである(1912年4月)。



タイタニック号の処女航海は、のっけから悪い兆しを見せた。

姉オリンピックと同じ巨大スクリューは、港に停泊中の別の客船を強く引き寄せたのちに、その繋留ケーブルを断ち切り、あわや2隻は大衝突を起こすところであった。

この危機はタイタニック号のタグボートの機転によりギリギリで回避されることになるのだが、逆説的にはここで衝突事故を起こしていた方が後々の大惨事にはつながらなかったのかもしれない。



出鼻をくじかれたタイタニック号であったが、それからの4日間はおよそ平和であった。アメリカまでの航路は5日間、翌日には到着予定であった。

しかし、あの事故はその深夜に起こるのである。

「まっ正面に氷山!(Iceberg rightahead!)」



20mを超える巨大氷山までの距離はわずか400~500m。発見から衝突までに30秒もかからなかった(一説には10秒)。

必死の舵取りで正面衝突は避けられたものの、ギリギリでかわした氷山は船体の側面を長く斬りつけた。



タイタニックの船体は内部で16の区画に区切られており、その内の4区画が浸水しても沈没を免れるような設計がなされていた。

しかし、不幸にも氷山が斬りつけた長い傷は5区画に及んだ。その結果、沈没は時間の問題となった。



2000人を超えていた乗員・乗客は「救命ボート」に殺到する。

しかし、悲しいかなタイタニック号にはその半数を収容する救命ボートしか搭載されていなかった。豪華な設備の陰で、安全設備が軽視されていたのである。




それでもタイタニック号の不備ばかりを責められない。

当時の常識では、タイタニック号ほど短い時間(2時間40分)で巨大客船が沈むことは想定されていなかったのだ。

タイタニック号の直前に事故を起こした大型客船「リパブリック号」が沈むのには、衝突から沈没まで38時間もかかっており、救助船が到着するのに充分な時間があった。

そのため、大型客船はそれほど早く沈まず、救命ボートを人数分搭載していなくとも、救助船が助けてくれるのだという儚い安心感が醸成されてしまっていたのである。

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4月の大西洋の海は冷たかった(マイナス2度)。

そのため、救命ボートに乗れなかった人々の命が消えるのも早かった…。

海運史上の大惨事と言われたこの事故の犠牲者は1,500人を超える。優雅に船に乗っていた実に7割の人々が、その3時間後には海に消えたのである。




姉が沈んだ時、末妹のブリタニックは未だ建造途中であった。

姉の教訓は多少は考慮されたものの、その抜本的な構造が変えられることはなかった。

なぜなら、タイタニック号の事故は「不幸な偶然が重なったせいで、再発の可能性は万に一つもない」と断言されたからである。

しかし残念ながら、その万に一つはかわいい末妹をも襲うのである。




ブリタニック号が就航するのは、姉の悲劇から3年後。

豪華客船として建造されたはずのブリタニック号は、第一次世界大戦の勃発と就航が重なったために、その船出は軍隊の「病院船」としてだった。

船体は純白に塗られ、緑のラインと赤十字が書き加えられることとなった。




イギリスを出たブリタニック号は、地中海をへてギリシャへと向かう。地中海や中東での戦闘での負傷兵を収容するためである。

しかし、地中海の海底には敵国ドイツの潜水艦Uボートが不気味にうごめいていた。



そのUボートが海底に仕掛けていた機雷(地上でいえば地雷)に、ブリタニック号は接触。その爆発は船底に穴を開けた。

設計上はそれしきの穴で沈むブリタニックではなかった。

タイタニック同様、ブリタニックの船体はいくつもの区画に区切られており、たとえ数区画が浸水しても沈まないようにできていた。タイタニックは不幸にも耐えられる限界の4区画を超えて5区画がやられてしまったので、妹のブリタニックは6区画がやられても沈まないようにできていた。




しかし、ブリタニックは沈むのである。

しかも、50分という短時間で(タイタニックの3分の1の時間)。

Source: google.ca via Linda on Pinterest


機雷による損傷は、最悪でも2区画。それなのになぜ、それほど早く沈んだのか。

これは最近の調査で明らかにされたことだが、区画間の防水扉が開けっ放しにされており、区画を区切っていたはずの隔壁間を水が自由に行き来できたためであった。

さらに船体の横の窓も開けっ放しであった。大西洋を航海するために建造されたブリタニックの空調は甘く、地中海はあまりにも暑すぎたのだ。窓が開けっ放しにされていたのも無理はない。



幸いにもブリタニックには人数分の救命ボートが搭載されていた。これは姉の悲劇の教訓によるものだ。

しかし、不幸なのはその救命ボートが死を早めたことである。



頭が沈んで巨大なお尻のスクリューを海上に出したブリタニック号。

その巨大スクリューの生み出す渦はハンパない。かつてオリンピックのスクリューが巡洋艦を引き寄せて衝突し、タイタニックのスクリューが客船の繋留ケーブルを断ち切ったのである。



小さな救命ボートなどは、水上に浮かぶ無力な木の葉のように巨大スクリューに吸い込まれていった。そのため、ブリタニック号の犠牲者のほとんどは救命ボートに乗った人々であった。

タイタニックでは救命ボートに乗れなかった人が死に、逆にブリタニックでは救命ボートに乗れた人が死んだのだ。

Source: google.ca via Kitriena on Pinterest


余談ではあるが、バイオレット・ジェソップという女性は、タイタニックにもブリタニックにも乗っていた不運な女性であり、いずれの沈没の際にも生き残った幸運な女性でもある。

タイタニックの際には救命ボートに乗って難を逃れ、ブリタニックの際には一旦乗った救命ボートから海に飛び込んで九死に一生を得たのだ。

それでもブリタニックの巨大スクリューからは逃れ切れず、頭蓋骨骨折という重症を負ってしまう。




ああ…、悲劇の三姉妹。

長女オリンピックを残して、二人の妹たちは今も海底に沈んだままである。かたや大西洋、かたや地中海…。



タイタニックが沈んだのは今からちょうど100年前。

当時は造船業が花盛りの時代である。それから100年、時代を象徴する大事故は原子力発電所ということになるのだろうか。

100年の時の差はあれど、その根底にある人間の意識には奇妙な共通性が垣間見られる。



速度や大型化による乗車人員数という「効率」を競い合った大型客船。

その効率化の争いは、現代ではグローバル化という言葉で語られるものである。

そして、その効率化という競争の陰で犠牲になるのが「安全性」となる(広い意味では「格差」という社会問題も含まれるのかもしれない)。



タイタニックの巨体には、しっかりした身が備わっていなかった。巨大な鎧の下は、思ったよりも薄着だったのである。

福島第一原発の非常用発電は、しっかりした鎧にすら身を守られていなかった。

巨大産業の大きな影は、安全性を見えなくするには十分すぎるほど巨大なものである。



さて、タイタニックの悲劇から100年たった今。

大事故を起こした大型客船は世界から消えたのであろうか?

そんなことはない。短期的には生かされなかった教訓も、現代には十分に生かされ、その速度や安全性には当時とは雲泥の違いがある。


タイタニックから飛鳥2へ
―客船からクルーズ船への歴史



あと100年たった時、2011年の原発事故はどう語られるのだろうか?

短期的には生かされにくい教訓も、もっと冷静な目をもった後世の人々はちゃんと生かすかもしれない。



最後に秘話をもう一つ。

三姉妹で唯一生き残った長女オリンピック号は、短命だった妹たちの菩提を弔うかのように、24年にも及ぶ長き天寿を全うし、「頼もしいおばあちゃん(Old Reliable)」という微笑ましい愛称までいただいている。

彼女は妹タイタニックのSOSを受け取った数少ない船の一つでありながら、その位置が遠すぎたために、その救援には間に合わなかった。瓜二つの妹が沈むのを知っていながら苦汁を飲んだのだ。

第一次世界大戦において、オリンピック号はドイツの潜水艦Uボートに体当たりを食らわせて撃沈させるという武勇伝を生んでいる(商船が軍艦を撃沈した唯一の事例)。末妹のブリタニックを沈めたUボートを…。

戦後に客船に戻ったオリンピック号は、合計500回以上も大西洋を行き来したのだという。



寿命がきたオリンピック号は多くの人々に惜しまれ、その豪華な内装の一部はイギリス夫人に買い取られ、現在ミレニアムという船のレストランとして使用されている。

その名も「オリンピック・レストラン」。オリンピック号そのままの内装には当時の食器類も飾られており、連日の人気を誇っているのだという。



100年という時間は、後世に生きる我々が知るべきことを精査、選別してくれる。

沈むべきことは沈み、残るべきことは残るようにできているのだろうか。



後世の我々はタイタニック号の張りぼての煙突を笑うかもしれない。

そして、その一方でオリンピック号のレストランに感激したりもするのである。



それと同様、現代の我々の所業は後世の人々に笑われもするし、感心されたりもするのだろう。

それはそれで楽しみなような、恐ろしいような…。




NATIONAL GEOGRAPHIC (ナショナル ジオグラフィック) 日本版 2012年 04月号 [雑誌]


出典:BS世界のドキュメンタリー
タイタニック事故 100年 姉妹船の悲運




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