2012年6月30日土曜日

「実」に生きるダチョウ


「ダチョウ」は飛べない。

飛ぶ必要がなかった環境ゆえに、その羽は小さく退化した。



飛べない羽とはいえ、彼らは様々なシーンでその羽を広げる。

それは「戦い」の場であったり、「恋愛」の場であったり…。





アフリカのサバンナ(乾燥した草原)に暮らすダチョウたちは、その厳しい自然環境を生き抜かなければならない。

2mを超える巨体は、見晴らしの良い草原ではあまりにも目立つ。ダチョウが本気で走れば時速70kmを越えるというが、ダッシュ力にかけては肉食獣のほうがはるかに速い。

それゆえ、いかに「早く」外敵を発見できるかが生存のための大きな鍵となる。



そのためにダチョウは群れる。

外敵を監視する目が多ければ多いほど、外敵を発見できる確率は上がるのだ。



ところが、彼らの群れに「なあなあ」は許されない。

強い者が生き残るというルールを守るために、オスたちは羽を広げて戦い、自らの縄張りを主張する。

メスたちも同様に争い、強いオスへ近づこうとする。




縄張りを勝ち取ったオスがメスに対して羽を広げるのは「求愛」である。

一番強かったメスも羽を広げて同意を示す。




ダチョウは1~8個ほどの「卵」を産み、それをオスとメスが交代で守る。

産卵するのは「乾期」であるために、地上の気温は50℃近くにもなる。それでも彼らは根気よく動かずに卵を守り続ける。

時折り羽を膨らませているのは、少しでも体温を下げるためだ。




交代が来れば、卵の守りから解放されエサを食べに行ける。

おや?

エサを食べ終わったオスは、再び羽を広げて「別のメス」を追いかけ始めた。そして、あっさり交尾。

一カ所の縄張りにオスは一羽しかいないが、メスは数羽が残る。それは負けたメスにもこうした交尾のチャンスが巡ってくるからである。




正妻(第一位)のメスは、側女(第二位以下)のメスを邪険にしない。

卵を守っている正妻に側女(そばめ)が近づいて来ると、おもむろに正妻は立ち上がり、卵の場を側女に明け渡す。

卵の場に座り込んだ側女は、なんと産卵。産卵が終わった側女は去り、正妻が再び卵の場の守りにつく。



正妻は別のメスの卵も、自分の卵同様に守るのだ。

それでもダチョウは自分の卵がどれかを知っている。

自分の卵を「内側」に、別のメスの卵を「外側」に配置し直す。それは外側の卵ほど外敵にやられやすいためである。




ダチョウの卵を襲うのは「ハゲワシ」だ。

オスとメスで交代で守られているはずの卵も、なぜか誰も守っていない時もある。

そんな時、茶色の大地に転がっている真っ白い卵は上空からでもハッキリと確認でき、すかさずハゲワシは卵を食べにやって来る。




人間2人が乗っても割れないほど丈夫な殻を持つダチョウの卵。

ハゲワシは巧みにも「石」を使って上手に卵を割ってしまう。




ハゲワシが食べるのは「外側の卵」。つまり、側女の卵である。

側女の卵を快く受け入れた正妻であるが、犠牲になるのは決まって側女の卵というわけだ。

側女の卵は自分の卵を守るための「防御壁」になっているのである。



ところで、ダチョウの卵は美味しいのか?

ニワトリの卵の20倍以上の大きさはあるが、「水っぽくて味は決して良くない」とのこと。

アフリカの狩猟民族では子供や老人の食べ物とされ、なぜか成人が食べるのは「恥」とされているのだとか。ちなみにユダヤ教徒も食べない。それは旧約聖書に「ダチョウの卵は食べてはならない」と書かれているからだ。




11月に入ると、乾燥した草原にも「雨」が降る。短いながらも「雨季」の始まりだ。

小さな子供たちが生まれるのは、そんな時である。




生まれたその日はヨタヨタとしている子供たちも、二日目にはスタスタと歩き回る。

そして、すぐに自分でエサをとって食べ始める。ダチョウの子供たちが親からエサを与えられることはないとのこと。

弱肉強食の世界にあって、最も脆弱な子供たち。生まれた瞬間から一人で生きていく術を心得ているようである。



雨季に生まれる子供たちは、生えたばかりの柔らかい草を食べて育つ。

両親の後ろをついてまわり、親たちが食べるのと同じモノを食べる。




短い雨季が終わると地面の草はなくなるが、低木の葉っぱは残っている。

雨季が終わる頃には子供たちも1mを越えるまでに成長し、何とか低木の葉っぱにも口が届くようになる。

身体が大きければ外敵に発見されやすくはなるのだが、乾燥地帯でエサを確保するためにはそれなりの大きさの身体も必要である。地面の草はすぐに枯れてしまうのだから。




ちなみに、ダチョウは枯れ草をも食べる。

小石と一緒に食べることにより、消化しにくい枯れ草からでも栄養を取ることができるのだ。



群れることを好むダチョウであるが、オス同士は磁石の同極同士のように強く反発する。

そのため、家族連れのオス同士が鉢合わせると、決まって「戦い」が始まる。




その勝敗の結果は無情である。

負けたオスは家族を失うのだ。

嫁も子供も勝ったオスについていってしまう。それが悲しくも生き残るルールなのである。



時には戦いの混乱により一家は離散する。

負けたオスは当然一人ぼっちになるのだが、パニクった子供たちが子供たちだけではぐれてしまうこともある。

生まれて9ヶ月くらいまで、子供たちは親を必要とするため、はぐれてしまった子供たちは、自分たちの親でなくとも、近くで見つけた大きなダチョウについて行く。



そして、そのダチョウもついて来る子供たちを嫌がらない。

むしろ、その子供たちがいなくなった時などは探しに戻るほどである。



なんともユルい親子の関係。

弱き者は自分の子を失い、女子供は強き者に身を寄せる。

そして、身寄りのない子供たちは、誰にでも受け入れられる。



過酷な大地を生き抜くダチョウに「つまらない倫理観」は存在しないようである。

彼らの生きる目的は、「ただ生きること」。



そんなダチョウたちの世界は時に非情で、時には限りなく優しく見える。

ひとつの個体、ひとつの家族に情が執着してしまえば、ダチョウたちの心根の優しさは見えてこないが、大きな家族という視点にたてば、その優しさが際立ってくる。



生きるために群れ、生きるために戦う。

生きるために他者の卵を守り、生きるために親を捨てる。




自他の概念が狭ければ「矛盾」してしまうことでも、ダチョウのように自他を広くとらえるならば、すべては矛盾しない。

それは美しいほど理にかなっている。



世の矛盾は狭い思考の産物でもあろう。

最強の矛と最強の盾は、狭い世界での「最強」であり、上には上があれば下には下があるものだ。



鳥でありながら飛ぶことをやめたダチョウは、まったく常識に囚われていないようにも見える。何よりも、その羽は「間違った」使われ方をしているのだから。

しかし、そんな常識もダチョウにとっては「つまらないモノ」なのであろう。



なんと彼らは大きな世界を生きていることか。

人間であれば絶望してしまいそうな苦境でも、ダチョウたちは気にも止めていないようである。

それは彼らがそれだけの修羅場を生き抜いてきたからなのでもあろう。



アフリカの灼熱の太陽は、何ヶ月にも渡って大地を干からびさせる。

たった数ヶ月の慈雨は、またたく間に雲へと帰る。



そこに生を受けたダチョウは、幸か不幸か羽を失った。

しかし、その生は確実に受け継がれている。

受け継ぐほどに強さを増しながら…。








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出典:ワイルドライフ
「アフリカ大サバンナ 世界最大の鳥ダチョウ 驚異の子育てに密着」

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