2012年6月16日土曜日

自然の流れに抗い続けるからこその「生命体」


こんな問いがなされた。

「人間の身体はなぜこんなに大きいのか?」



この問いを発したのは物理学者の「シュレーディンガー」。

物理学者というのは、一般人がまったく疑問に思わないようなことを平気で疑問に思うものなのか?

しかしそれでも、この問いに関する考察は一般人にも十分興味深い。





まず、人間の身体が「大きい」というのは、「原子一個」に対してである。

原子一個の大きさは直径1~2オングストローム。

※「オングストローム」という聞き慣れない単位は、多少聞いたことのある「ナノメートル」の10分の1である(100億分の1メートル)。

ちなみに、細胞一個の大きさは30~40万オングストローム。




ここで理解しておくべきことは、単位の正確さではない。ただ単に、人間の身体は原子一個に対して途方もなく巨大であり、その人体には途方もない数の原子が含まれているという、ある種わかりきった事実である。

※人間の身長だけでも、原子の直径のおよそ160~180億倍。



じつは、原子というのはよほどに「勝手なヤツ」ばかりである。

手当たり次第に動き回るため、まったく予測がつかない。まさに「無秩序」。

その勝手なふるまいの「ある一瞬間」だけを捉えれば、常識的な物理学の法則を平然と無視しているモノたちも数多い。重力に逆らったり、流れに逆らったり…。



ここで問題になるのは、そうした勝手なヤツが「どれほどいるか」、ということである。

なぜなら、無秩序を愛する勝手なヤツばかりでは、人体という極めて秩序だった生命体は機能しえないからだ。



その勝手なヤツの割合は、意外にも正確にわかる。

それは統計学の方程式によって導かれる。

それは、「平方根(ルート)の法則」と呼ばれるもので、もし100個の原子があったら、そのうちの勝手なヤツはルート100、すなわち10個である。



100個中10個も意に従わないヤツがいるといのは大変な難事だ。

10%も予測不能な動きをされては、その「誤差率」は大変なもので、とうてい人体という「高度な秩序を要求される生命活動」など機能し得ない。



だが、幸いにもこの「誤差率」は原子の数が「多ければ多いほど低くなる」。

100のルートは10(10%)。

10,000(1万)のルートは100(1%)。

1,000,000(100万)のルートは1,000(0.1%)

100,000,000(1億)のルートは10,000(0.01%)…

「平方根の法則」に従えば、数が膨大になるほど、その誤差率は加速度的に極小となっていく。



そろそろお気づきかもしれない。

「なぜ人体は原子一個に対してそれほど大きくなくてはならないか」、という問いの答えが。

そう、大きければ大きいほど原子はたくさん必要で、原子の数が多ければ多いほど「誤差率(勝手なふるまいをする「ならず者」の割合)」を小さくできる。

物理学者シュレーディンガーは、こう結論づけたのである。


生命とは何か
―物理的にみた生細胞



数が多ければ多いほど「秩序だってくる」というのは、意外な気もする。

かえって統率するのが困難になるような気もするが、そうではないらしい。お互いがお互いの「抑止力」ともなるために、結局は「無秩序の中から秩序が生まれてくる」のである。



物事の平均というのは、その平均するものの個体数が少なければ大きく揺らぐ数字となる。

たとえば、サイコロを「3回」振って出た目の平均は「1」かもしれないし「6」かもしれない。平均が「1」ならば100%の確率で「1」が出るということである。

ところが、サイコロを無数に振った結果は、ご存知の通り「6分の1」の確率で「1」が出るのである。

この秩序に満ちた「6分の1」という結果を導くには、無秩序にサイコロを振りまくらなければならないのだ。何千回、何万回、何億回と。



確率の誤差を防ぐということは、そういうことである。

サイコロを振れば振るほど、一回あたりの比重がどんどんと軽くなっていくのだ。

すなわち、多少勝手なヤツがいたとしても、その影響は無視できるほどに小さくなっていく。



たとえ、原子一個が物理の法則に従わないとしても、それを巨大な全体の中でみれば、それは取るに足らない些事であり、平均すれば消え失せてしまう儚いものなのである。

こうして巨大な人体は、無秩序な動きをする原子たちに翻弄されることなく、秩序だって毎日の生活を送れるようになっているのである。



ところで、「無秩序」という言葉は、「エントロピー」という言葉を導く。

「エントロピー」とは、実にとらえどころのない言葉で、「乱雑さ(ランダムさ)」などと説明されるも、いまいちピンとこない。


冷蔵庫と宇宙
―エントロピーから見た科学の地平



たとえば、こんな説明がある。

コーヒーにミルクを注いだらどうなるか?

当然、ミルクはコーヒーに混ざり合っていくに違いない。



ここにエントロピーという言葉を当てはめてみよう。

コーヒーにミルクがまだ十分に混ざり合っていない「まだらな色」の状態を「エントロピーが小さい」といい、十分に混ざり合って「均一な色」になった状態を「エントロピーが大きい」という。



エントロピーは小さいほど「秩序」があり、大きいほど「無秩序」になる。

すなわち、コーヒーとミルクが混ざり合っていないほうが「秩序」があり、十分混ざったほうが「無秩序」ということだ。

どこかチグハグな感じがするのではなかろうか。なぜ、均一化したほうが無秩序なのか?




この感覚の矛盾は、「平均」という言葉にある。

コーヒーとミルクが別々の「平均化されていない状態」が秩序で、十分に混ざり合って「平均化された状態」が無秩序というのは、感覚的に逆である。



我々は無意識に平均化することを美化し、格差の存在することを悪と考えがちである。

しかし、物事は然るべきモノが然るべきところに収まっている方が「秩序」が保てるのである。あらゆるモノがあらゆる場所に動き回れる状態はまさに「無秩序」で、それは大混乱した状態なのである。

コーヒーとミルクというお互いに別種のモノ同士は、別々に存在したほうが秩序だっており、それが混ざり合った状態(平均化された状態)というのは無秩序なのである。



この平均化が極まることを「エントロピーが最大化する」という。

最大化するとどうなるか?

死ぬのである。



コーヒーに注がれたミルクが拡散し、完全に平均化された状態は、エントロピーが最大になった状態であり、つまりコーヒーカップの中のコーヒーとミルクの物語は「終わった」状態なのである。

それ以上の進展はもはや望めない。

ただ、その死は閉鎖されたコーヒーカップの中だけの物語であり、それが人間の口に入れば、また別の物語が始まる。長いような短いような消化への物語が始まるのである。



エントロピーが最大化へ向かうというのは、コーヒーばかりではなく、人間にも避けることのできない法則であり、ひとたび大きくなったエントロピーを小さくすることは不可能である。

人間は生まれた瞬間から死(エントロピー最大)へと向かい続ける。その老化は多少遅らせることはできるかもしれないが、時に逆行することは許されてはいない。



しかし、幸いにも生命とはよく出来ているもので、コーヒーとミルクが混ざり合うほどに急速にはエントロピーは増大しない。

もし、人体が無生物的な反応を繰り返すのであれば、たちまちエントロピーは増え続けるところ、生命活動というのは何10年間とその増大を阻止し続けるのである。



シュレーディンガーは、こう考えた。

外部から食物をとるという行為がエントロピーを長持ちさせるのだ、と。

ミルクと完全に融合したコーヒーが、コーヒーカップという枠から出ることで新たなエントロピーの物語が始まるのと同様、もしそのミルクコーヒーが人間の口に入れば、人体は人体で新たなエントロピーのエネルギーを得るのである。



エントロピーの法則が一方向に進むのは、その系(システム)が閉鎖されていることを大前提としている。

そのため、その系が広がり続けるのであれば、延々とエントロピーの物語は繰り返されることになる。すなわち、死を遠ざけることができるのである。



生命体が編み出したエントロピー対策は、「流れの中に生きる」ことである。

ひとたび静止してしまえば、瞬く間にエントロピーの餌食となってしまう。常に外から何かを取り入れ、何かを排出するという「流れ」を維持する限り、生き続けることができる。

しかし、その流れがエントロピーに追いつかれてしまった時…、生は終わる。



我々は人体を「固定的な物質」と勘違いしている。

しかし、実はとんでもない速さで人体を構成する物質は入れ替わり続けているのだ。

以下の実験は、その事実を余すところなく実感させてくれる。



あるネズミのエサに目印となる「アミノ酸」を加えて、その動きを追った。

シェーンハイマーは3日間だけ、その特別なエサをそのネズミに与えた。最初、彼はこう思った。消化されたエサのほとんどは排泄されるだろう、と。

ところが、その結果は予想を裏切る驚くべきものだった。



排泄されたのはわずか3分の1にも満たない。

その半分以上はタンパク質として体内に取り込まれたのだ。しかも、その取り込まれ方が尋常ではない。

表面的な皮膚や筋肉ではなく、内臓の奥の奥にまで取り込まれていたのだ。



結果的に、たった3日間のエサが、身体の半分のタンパク質を総入れ替えしてしまった。

タンパク質を「文章」とたとえれば、アミノ酸はその文章を構成する「単語」であり、その単語はより小さな「文字」たちからなる。

ネズミのタンパク質はその大きな単位ごとに入れ替わったのではなく、最小単位である一文字一文字ごとに入れ替わっていた。



この事実が何を意味するかというと、複雑に構成されたタンパク質が一文字ごとに分解され、それがまた再構成されていたということだ。たった3日間でその半分が。

まったく「恐ろしい速さ」である。



たとえば、眼下に広がる街並みの家々がたった3日間で、その半数が建て替えられていたらどれほど驚くだろう。その外観はまったく変えずに、木材などの素材だけがすべて新品になっているのだ。

ネズミの体内で起こっていたのは、それに匹敵するほどの大事業なのである。

外部から取り込まれたエサは、まさに文字通り、ネズミの体内を「くまなく」通り過ぎ、その半分を入れ替えたのである。



この驚異は、人体においても日常的に起こっている奇跡である。

皮膚がアカとなって落ちたり、髪の毛の何本かが抜け落ちたりするのは、ほんの小さな表面的な出来事に過ぎない。じつは、骨の奥の奥、脳ミソの奥の奥までが絶え間なく入れ替わりを続けているのである。どんな名医のメスも届かない奥の奥まで。

脂肪ですらそうだ。後生大事に仕舞い込まれているわけではなく、すべてを使い、再び新たに同じ量を貯蔵するのだ。そこに不良在庫は一品もなく、ひたすら売れ続けているのである。



人は挨拶がてらに、こう言う。「お変わりありませんか?」

生物学者の答えはこうだ。「すっかり入れ替わりました」



生命体が「固定した物質」というのは、まさに幻想に過ぎない。

いわば、「流れっぱなし」である。たまたまDNAか何かが人体という「カタチ」を記憶しているために、同じ形を維持しているのみである。

それはあたかも滝の流れのようだ。その様はある程度のカタチを持っているように見えて、その実、怒涛のようなスピードで流れ続けている。



「秩序は守るために破壊しなければならない」

これが生命体が肝に銘じている掟なのかもしれない。

とどまれば死を近づけるのみ。エントロピーの法則は無情である。エントロピーに破壊されるまえに自らを破壊し、再生するのだ。



何億年とかけて生命体が得た最大の知恵は、こうした自己破壊と自己再生の「流れ」の中に身を置くことだった。

これが唯一にして最大の「エントロピーへの抵抗」だったのである。



もし、生命体がその身体を守るために守りを固めて、組織の耐久性が強度を上げることに汲々としていたら、あっという間にエントロピーに飲み込まれてしまっていただろう。事実、そんな阿呆な生命体はすでに死に絶えているのだろう。

一つの完璧な遺伝子を後生大事に守っている場合ではない。ひたすらコピーして、ひたすら次へと飛び移れ!エントロピーの影はすでに「Behind you!」。



追いつかれるよりも速く逃げろ。

速く逃げるには身軽な方がいい。

ただあまりに身軽すぎれば、原子の無秩序さに翻弄されて終わる。内部の反乱を抑え込むためには、先述した通り、然るべき数の原子を抱え込んでおく必要があるのである。



人体の大きさ、そしてその流れのスピード。

まさに奇跡的な「動的バランス」がここにある。



「生きる」とはどういうことか?

哲学的には答えのないこの問いも、生命体は簡明に嘯(うそぶ)くはずだ。

「流れ続けることさ」、と。



それでは、「生命体とは何か?」という問いはどうだ?

DNAを自己複製する能力を有する者たちのことか?

「いや、自然の流れ(エントロピー)に抗(あらが)い続ける者たちだ。」



そういう意味では、自然界における生命体こそが、予測不可能の動きを飽かずに繰り返し続ける「ならず者」たちなのかもしれない。

幸いにも、こうした「ならず者」は巨大な宇宙の中では、無視できるほどに小さな「誤差」に過ぎない。



冒頭の、「なぜ人間の身体は(原子一個に対して)こんなに大きいのか」という問いは、ここに来て、こう響く。

「なぜ、宇宙は人間一人に対して、かくも大きいのか?」



その答えは今や自明であろう。

「誤差を極小に抑え込むためである」

この広大無辺な宇宙に対しては、人間はオングストローム(原子一個)にも満たないのだから…。







出典:生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)



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