2012年6月23日土曜日

石油は有限。サウジアラビアの石油でさえも。


石油の湧く国「サウジアラビア」があと30年もせずに石油の「純輸入国(a net importer)」になることなど信じられるだろうか。

その可能性は低いのかもしれないが、英国エコノミスト誌は今週の記事(Oil prices: Keeping it to themselve)にこう書いている。

「現在の傾向が続けば、サウジアラビアは2038年までに石油の純輸入国になる計算である(On current trends the kingdom would become a net importer of oil by 2038)」



ここ10年(2000~2010)で、石油の消費が世界一伸びたのは他ならぬ「中国」だ。同国はこの10年の間に、その消費を90%以上増加させている。

中国の大量消費は想像通りであるかもしれないが、ここで意外なのは、2番手につけたのが「サウジアラビア」だということであろう。

21世紀に入ってから、サウジアラビアの石油消費は80%近く増大している。これは世界第2位の凄まじい増加量である(ちなみに欧米地域は減少傾向)。

※中国の増加量は日量430万バレル。サウジアラビアは120万バレル。1バレル(樽の意)は約160リットル。ちなみにドラム缶一本は200リットル。





中国はその華々しい経済成長を考えれば、石油の消費が増大していることにそれほどの違和感はない(中国の経済規模はここ10年で6倍近くにまで拡大している)。

それに対して、サウジアラビアの経済規模は、ここ10年間で2倍以上に拡大したものの、中国との比較から見れば、それはそれは穏やかなものである。

しかし、それでもサウジアラビアの石油消費量の増加は中国に次ぐものなのである(以下、インド、ブラジル)。

[世] 名目GDP(USドル)の推移(2000~2011年)の比較(中国、サウジアラビア)


サウジアラビアの人口の少なさ(約2千700万人)を考えれば、その過剰な消費は「一人当たりの石油消費量」を押し上げる。

なんと、大量消費の代名詞たるアメリカ人よりもはるかに多くの石油を使っているのが、今やサウジアラビア人なのである(アメリカの1.6倍)。

※サウジアラビアの一人当たり石油消費量(一日あたり)は15リットル以上。それに対してアメリカは10リットル以下。ちなみに日本は5リットル前後。

※下記グラフは石油に限らない一人当たりのエネルギー消費量を示したものであるが、サウジアラビアが消費大国・アメリカに迫る勢いであることが理解できる。当然、日本のはるか上を行っている。




サウジアラビアの国全体の石油消費はと言えば、驚くべきことに今や世界第6位にまで上昇している(1位・アメリカ、2位・中国、3位・日本、4位・インド、5位・ロシア)。

ちなみにサウジアラビアの経済規模(GDP)は、世界23位にとどまっている。




なぜ、サウジアラビアではかくも大量の石油が消費されているのか? その経済規模の小ささにもかかわらず。

それはやはり、自国で産出する石油の量がケタ違いに膨大であるためであろう。その埋蔵量は世界最大であり、現在の産出量も世界第2位である(1位ロシア)。

水の国に住む日本人が、惜しげもなく水を消費するのと同じように、サウジアラビア人は石油を消費する。



何よりもサウジアラビアでは「石油が安い」。

ガソリンは1リットルで約13円程度と格安だ。なんと、日本の10分の1以下ではないか。

サウジアラビア政府は石油を世界に売って得た莫大な利益を、「補助金」という形で国民に還元しているのである。それゆえ、こうした破格の安値で国民にガソリンが提供できるのだ(サウジアラビアは湾岸諸国で最も燃料価格が安い)。

※原油の採掘コストは1バレル(約160リットル)あたり3~5ドル(250~400円)。すなわち1リットルあたり1.5~2.5円。



現在、サウジアラビアでの自動車普及率はアメリカの3分の1程度とのことだが、国民が豊かになるほどその割合は増加するはずで、いずれはアメリカ並みに自動車が普及する可能性もある。

ガソリンが安いのであれば、電車やバスなどの公共機関を利用するよりも自家用車の方がコストパフォーマンスは良いはずである。実際、サウジアラビア政府は公共機関を発展させるよりも、アメリカ的な自動車文化を促進しているとのことである。



また、灼熱のサウジアラビアでは、「エアコン」の使用もハンパない。暑すぎる夏のピーク時には、電力需要の半分近くをエアコンが占めるのだという。

その電力を生み出すのもまた「石油」である(総電力の65%が石油火力発電)。



さらに、砂漠の国・サウジアラビアでは「水」も石油から作らなければならない。

大量の海水を「淡水化(脱塩処理)」するには、石油で発電した大量の電力が必要なのである(電力需要の10%)。サウジアラビアの水供給は、住宅用の6割、工業用のほぼ全量が海水を処理して作られているとのことだ。



ガソリンや水、そして電力の大元となる原油は、サウジアラビアの人口増加によって、ますますその消費量を増大させる傾向にある。ここ10年でサウジアラビアの人口は40%近く増加しているのである(2,000万人から2,740万人へ)。

経済発展のスピード感に加えて、人口増もあいまれば、サウジアラビア石油の「国内需要」は高まるばかりである。今や同国の産出する石油の4分の1が国内で消費されるまでになっている。



こうした事実に目を通していけば、冒頭にご紹介した「2038年までにサウジアラビアが石油の輸入国になる」という荒唐無稽に聞こえる話も、どこか真実味を帯びてくる。

※この予測は、イギリスの王立国際問題研究所(チャタムハムス)の報告書によるものである(2011年12月発表)。

かつては石油の「輸出国」であった「インドネシア」は、今から5年ほど前(2004)に「純輸入国」に転じている。その理由はといえば、国内需要の高まりであった。



こうした傾向はサウジアラビアのみならず、中東地域全体に及ぶものである。

2000~2010年の10年間、世界の石油消費は14%増加したが、中東地域に限ればその率は世界平均の4倍にも及ぶ(56%増)。中東諸国はその経済発展のスピード以上に石油を浪費しているのである。

それは中東諸国がサウジアラビアと同じように「補助金」によって、国民に石油を安く提供していることと無縁ではない。全世界の石油補助金1920億ドル(15兆7,000億円のうち、その60%以上(1210億ドル)がOPEC加盟国が占めるのだ。



そうした石油を浪費しがちな産油国の中にあって、なぜサウジアラビアだけがことさらに取り沙汰されるかと言えば、それは同国の石油「埋蔵量」がズバ抜けて膨大だからである。

石油の「余剰生産能力」があるのは、もはやサウジアラビア一国といっても過言ではない。



このサウジアラビアの余裕(余剰生産能力)は、アラブの春や欧州危機で揺れ動く世界の安定をなんとか保ってくれていた。

エジプトやリビアで革命が起こって石油の輸出が不安定になっても、経済制裁によってイラン原油の輸出が制限されても、「サウジアラビアが後ろに控えている」ということが世界の大きな安心感になっていたのである。

原油相場の4割が「投機マネー」と言われている現在、原油価格を安定させているのは他ならぬ市場の安心感である。そして、それを与えていたのがサウジアラビアだということになる。



ところが最近、サウジアラビアに「思ったほど余裕がなかった」ことが世界で騒がれ始めている。

まだ予測は不確かだとはいえ、徐々に不安を感じてきたマーケットは原油価格を少しづつ押し上げ続けている。ほんの10年前までは1バレル30ドルを超えることがなかった原油価格は、今や100ドルを超えて高止まりしているのだ。

それは、サウジアラビアという石油界の重鎮への信頼が揺らいでいることと無縁ではないのだろう。

[世] 国際商品価格の推移(年次:1980~2011年)(原油価格(WTI)、原油価格(ドバイ)、原油価格(ブレント))


日本の国別原油輸入のブラフを見ると、その30%がサウジアラビアである。そして、その90%近くが中東諸国である。その全輸入量はといえば、米中に次いで世界第3位。

原子力発電所を事実上失ってしまったような日本の石油への依存度は極めて大きいと同時に、死活問題である。



サウジアラビアの経済が発展して自動車やエアコンが普及するほど、同国の石油消費は増大する。そして、それは日本を圧迫する。

経済発展という言葉は甘美な響きを持つものの、その裏には有限な資源を使い尽くしてしまうかもしれないという恐怖も隠されている。

有限なものに「終わり」が見えてくれば、誰かのプラスが誰かのマイナスになり、それはいずれ奪い合いを生むことにもつながりかねない。



振り返れば、人類の文明は「消費の歴史」でもあった。

かつての中東地域は農耕発祥の地(メソポタミア)と言われるほどに豊かな大地に恵まれ、レバノンなどは立派な杉が自慢であった。

そうした大自然の恵みが使い尽くされると、人類は決まって「移動」した。中東からヨーロッパへ、そして大海を渡りアメリカへと。

それでも有限なものは有限であり、自然の再生のスピードよりも消費のスピードが速ければ、それは当然なくなってしまう。



地上のものが少なくなった時、人々の眼は地中に向いた。

掘れば掘るほど「資源」が出てくるではないか。石炭、石油、天然ガス…。幸か不幸か、これらの宝物は人類の消費のスピードを一気に加速させた。

それでもやはり有限なものは有限であり、それらの宝物を得るには今までよりずっと深い場所や氷の海の底まで潜らなければならなくなってしまっている。



さて、今度は何を使おうか?

それとも、別の星に「移動」しようか。



野生の動物は足元のものを食べていれば、それで事足りる。

足元のものがなくなったら、ただ死ぬだけだ。



賢い人間は足元のものだけに決して満足しない。

もちろん、むざむざと死にゆくことも。

さて、今度はどうしよう。



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